★ Reports From Beijing... ★
今日は、島谷です。
世界女性会議関連レポート第10弾です。
8月31日の日本からチャレンジドの方が主催するワークショップについての続きを
書きます。
次のチャレンジドの女性は、難産で産まれて脳性麻痺になったそうです。就学前の子
供達のいる施設にいて、そこで訓練をして学校の集団生活に慣れることが目的だった
と、彼女は母親から聞かされたそうです。就学時には、地域の学校に入れたいと母親
が町の教育委員会にいったそうですが、そこでは、「『就学猶予』というものがあり
ますよ」と言われたそうです。日本では体に障害があったり、学校にいけないんじゃ
ないかと判断された場合には、就学を猶予する制度があります。母親はごく当り前に
学校に行けるものだと思っていたから、悲しんで怒りました。でも、教育委員会の人
は、「国が学校に行かなくてもいいと言っているのだから、こんなにいいことはない
じゃないか」と言いました。母は泣きながら、県の人に電話して県の施設に行くこと
になりました。
「その施設の中で何が起こったかということをお話しします。
何か月も、小学校の低学年の子供達がいる部屋で暮らしました。へんな匂いがするな
ぁと思いました。また、鶏がいるのかとも思いました。この部屋のどこで鶏を飼って
いるのかと思って真剣に探しました。その後、定期的に行われるおむつ替えのときの
匂いがこびりついているのだと思いました。何日か暮らしているうちに、その匂いに
慣れました。低学年の男の子も女の子も一緒でした。でも、ご飯を食べるときに高学
年の子供も一緒に食べるので、そこに一緒に残っていることもありました。そこは、
30人くらいが寝泊りしている大部屋で、私は特に男の子の中にいることが変だとは
考えませんでした。
廊下には、3つくらい並べて、箱便器がありました。そこは誰もが通る廊下で、カー
テンは一応ありましたが、覗かれるとか覗かれないとかいう問題ではありませんでし
た。私や他の女の子も男の子もそこでトイレをしました。少し年齢が大きくなって、
高学年の部屋に移っても、その部屋の角にはカーテンで仕切られたトイレがありまし
た。一応、男女に分かれていましたが、昼間はその敷居のカーテンが開けられていて
、透明のガラスで見えるようになっていました。普通のトイレがどうなっていたかと
いうと、車椅子では絶対に使えないような作りになっていました。そこに入るために
は、自分で這っていくしかなかったので、膝が汚れました。つまり、床はとても汚れ
ていたということです。大きくなると、生理になりました。生理になると一目瞭然で
す。なるべく判らないようにするのですが、本当に判らないようにできたかどうか分
かりません。障害の重い女の子たちは、「こんな迷惑なことはねぇ」と言われていま
した。トイレが自分でできない女の子がいるのですが、いつも生理のときに気をつか
って、一回、私に、「もう、子宮を取ってしまいたい。」と相談されたことがありま
す。「そんな馬鹿なことを、、、」といって、その人を引っぱたいてしまいましたが
、その人の辛さを十分に分かっていました。大きくなって病棟を代わって、一応、前
よりはプライバシーを守れる小さな部屋に移されました。でも、やはりトイレには這
って膝を汚していくのでなければなりませんでした。トイレの一番外の入り口に便器
が置いてあって、私たちはそこでトイレをしました。もちろん、そこには大きな男の
子たちも入ってきて通り抜けるところです。でも、覗かれて嫌だという意識さえあり
ませんでした。車椅子の男の人は、そのドアの前で、しびんを持ってトイレをしてい
ました。トイレをしながら私達に話しかけて、普通に話しをしていました。そういう
所で私は育ちました。ちゃんとしたトイレは、人に見られない所でしていいんだとい
うことが判るまで、長い間かかりました。もし、私が地域から分けられていなかった
ら、こんな思いはしないでもよかったと思います。私の妹たちは、普通の学校に入れ
ました。
障害が無かったからです。
人の命を分けてしまうことにとても怒りを感じています。私たちは施設の名かで自分
達は駄目な人間だと思わされてきたからです。もし、優れているとか劣っているとか
いう考えが無ければ、もっといい環境で、生活できたと思います。
でも、今は障害を持っていることを、いいことだと思います。こういうことを伝える
ためのいい資料をもらったのだと思っています。」
、、、彼女は、こう語り、その後、Internatinal Playback Theaterの人達が、会場
で彼女の話しに対する感想を聞いて、即興で寸劇をしました。
つぎのチャレンジドの女性は、施設医療現場での性的な虐待について話してくれました。
「友人で、施設医療現場での性的な虐待について最近裁判に立ち上がった人がいます
。レントゲン医師からの性的な虐待に対して、立ち上がったのです。30分にわたっ
て、X線台の上で虐待を受け、何日間も眠れない日を過ごして、裁判で戦い、300
万円を勝ち取りました。しかし、裁判で裁判官は、彼女の話しを全く聞かないで、弁
護士と彼女の友人の話だけを聞くといった態度や、自分の友人達との関係にも疲れた
と言っています。
私自身も6才の時に、性的な虐待を受けましたが、そのときは困ったのは言葉がない
ことです。
骨がい性不全症で、20回骨折して8回手術をしています。何十回もレントゲン室に
行きました。
私は母をものすごく愛しています。母には何でも言うことができました。お医者を殺
すべきだとか、看護婦が悪いとか、、、でも性的な虐待のことを話すことはできませ
んでした。
レントゲン技師は、それ(性的な虐待)をやっている間、楽しんでいました。金属棒
があてがわれて、いじっている間、何も言えずに、何も泣けずに、自分が泣かなくち
ゃいけないのかどうかさえわかりませんでした。
レントゲン技師は、医者ではない、、、。
・・・
14年間、私は完全に忘れようとしていました。その間、私の中では重大なことがお
こっていました。私は、私の体を完全に物として扱っていました、、、。
20回も骨折をしていたときは、胸までガーゼをのせるのかどうかも、聞かれません
でした。
12才ごろから、看護婦さんが、ガーゼをのせろと言われるまで、人間の体はとても
恥ずかしいということを知りませんでした。
『人間は恥ずかしがる』、、、というすごい困難がやってきたのです。
恥ずかしがらなくちゃいけないということに気付き、女の人として見られないと思い
、女の人でもてる女性というのは、性的に愛されることであるか、結婚するか、美し
くなって性的に受け入れられるかの、そのどちらかしかない。性的に愛されるなら売
春もしてみたいと思ったこともありました。
自分の体を物化することで子供時代を過ごしたと思います。10代は、自分の体を憎
み、20代は自分の体だけではなく、肺が痛くなるほどたばこを吸い、お酒も飲んだ
りセックスもしました。
自分を愛する前に、どれだけの時間がかかったかしれません。
障害のない女性も、自分の体を憎み、攻撃していることに気付き、仰天しました。
今、障害を持つ女性に限っていうと、「障害があるから魅力が無い」という間違った
考えがあります。
障害を持つ女性は、逃げることができません。言葉の出ない人もいます。また、よく
密室に閉じ込められること、特にレントゲン室、ギブス室、診断室、手術室、、、。
しかし、『医療が
は素晴しく、障害のある人を助けるための正義になっているために、全く施設医療現
場での性的な虐待が見えなくなっています。こういう正義の元では何をされても文句
が言えないということです。
私は障害がめずらしいために14才になるまで、一年に一回、医療の効果がどう働い
ているのかを調べるために、裸にされて写真を撮られました。14、15才になって
、パンツをブラジャーをつけてもいいと言われたことが、もっと恥ずかしい。写真を
撮られている人がどんな思いをしているのかを考えたことはありますか?治ることが
完全に正しいといいつのる社会に対して、私は違うと言いたいし、私の体がどうあり
たいかを決めるのは私です。
車椅子に乗りたいのか、乗りたくないのか、
歩くために手術をするのかしないのかを決めるのが私だと、あなたが言ってくれたら
どんなに良かったか。
今、私はこの体が完全だと思っています。
そして、車椅子に乗るのは、ハイヒールをはいているのと同じだと思うし、階段にス
ロープを付けたり、バスにリフトを付けることが私の仕事だと思っています。」
これに対して、会場に来た人が、『神と祈り』を感想として述べ、寸劇が行われました。
さて、最後のチャレンジドの人がこう語り始めました。
「中学生になって、障害が再発したので、3年間ねたきりの思春期を過ごしました。
自分が自分であってはいけないんだと思いました。
すみません。ごめんなざい。ありがとう。
この言葉だけを使っていました。
こういう時には、診察の場面では自分が物体なのだということでした。突然、何人も
の男の人が部屋に入ってきてドイツ語で議論し、私がそこでどんな思いをしているの
かを知らずに、この障害をもった物体を見下げていました。そして、感じることを捨
ててしまいました。施設では子宮摘出をしなさいとは特に言っていませんでした。で
も、自分でトイレができない友達は、生理が始まったとき、泣いて、自分でトイレの
世話ができるまで何度も泣きながら練習をしてできるようになった友達の話しを聞き
ました。でも、友達の話では、職員の人は、(彼女が一人ででいるようになったのを
知らずに)周りの人が誰か手伝っているんじゃないかと言っていたそうです。
その彼女も今は、子供を産んで地域の中で暮らしています。
自己主張できる障害者にとっては、子宮摘出はそこほど大きな問題にはなっていませ
ん。しかし、隠れたところで、「迷惑なので、あなたは自主的にそうした方がいいの
よ」という話はありました。
しかし、自己主張のできない精神病の障害者は、本人の意志無しに子宮摘出されてし
まったという話しがあります。手術をした医者は、彼女が生理の前後に前後に不安定
になるということで、摘出したと言っていました。でも、これは人権侵害ではないの
か。しかし、その医者は「社会が迷惑だと思い、それを実現するのが医療だ」と言い
ました。
こういうケースで、子宮を取ることを誰が決めるのかというと、、障害者の両親、医
師、施設で決められます。
私たちは、厚生省に、優生保護法はこういう風に使われているいいのかと抗議しまし
た。この子宮摘出の記事を発表したドクターは、そのままで、彼は自分のやったこと
は正しいと思っています。
自己主張をうまくできない人達には、このようにして子宮摘出問題があります。その
事件について書かれた資料(紙)を今回持ってこれたことは、良かったと思っています。
今までは、障害のあることがいけないのだと思わされてきました。でも、今回、ここ
にきてワークショップが行えたことで、人の命を障害の有る、無しで左右する優生保
護法を無くすための大きなステージにたてたと思います。
優生思想は、障害のある人に、
「もし結婚して子供ができても、あなたは子供の世話ができないでしょう。だから、
あなたは人を好きにならない方がいい。子供は産まない方がいい。」というように思
わせてしまいます。
私たちは、障害を持っているけれど楽しんで生きているから、だから大丈夫だと大き
な声で何度も言いました。だけど、その言葉をいろいろな場で言わないと、「賢い人
が素晴しい」という所から自分が変わっていけないのだと思います。
障害を持って生きてきて良かったなということが、私をひっぱりここまできたと思い
ます。障害は私を構成する素晴しい個性であると思っています。」
彼女のこの話しのあとで、Theaterの人が、「もし、人間で彫刻を作るとしたら、何
を作ってほしいですか?という質問に、彼女達は、
「障害を持った私は、美しい」
ということを、お願いしました。そして、Theaterの人が、寸劇を行いました、、、。
しめくくりに、ある女性が「障害のない女性にとっても同じようなことがあって、ま
だまだ、女性にとっては過酷な世界です。」と言っていました。
私は、このワークショップに参加することになったこと自体が本当に偶然のなせる業
だったわけですが、
何がどういけない、いけなくないという論議というよりも、彼女たちが、いろいろな
困難を克服して、ここまできて、世界中の人達へのメッセンジャーになれたというこ
とが素晴しいなぁと思いました。これからも、がんばって下さい。
さて、9月の2日の夜は、いつものことながら、夜遅くになってしまったのですが、
夕飯を食べに出かけて(その店は、ハイロウでは、ディスコレストランと呼ばれてい
る店なのですが)、その帰りに、帰り道からちょこっと枝道に入ったところの、地元
の市場に寄りました。寄りましたというよりは、みんな疲れていたので、ウィンドウ
ショッピングしながら(ウィンドウはないのです。日本でいうと、お祭りの屋台のよ
うなお店がずらーっとならんでいるようなところです。)、何かお土産とかないかな
ぁとか、でもあてもさしてなくてれてれとそぞろあるきました。ちょうど、メンバー
は、Techチームのウルグアイ出身のmonica、チュニジアから来ているサナ、私。言葉
は、英語や、スペイン語混じりの英語など、色々な言葉がまじっていて、私には、何
を言っているのかさっぱりわからないこともしばしばあるのですが、それでも、みん
な、ちょっと酔っ払い気味で、束の間の休息をかねた散歩です。
ハイロウも、夜になると、少々涼しくなってきて、中国の秋が、訪れようとしている
のかもしれません。
なんとなく、気持ちのよい夜です。
ではでは。
世界女性館義のやってきたshimatanレポート No.10 − 95
.9.2
Before Report
Next Report
このページの情報に関する問い合わせ先
wom-sc@vcom.or.jp