オンライン学習会「介護」

 

 

6. 清水さん 第4回講義

家族と介護の実態(その3)
介護と「男らしさ」「女らしさ」

 

<家族と介護の実態(その3)>

家族そのものと家族役割が流動化してきて、カウンセリングとかかわりのない例ですが、実例でこんな家族介護があります。

1.きょうだい、兄と妹の老後

 一度結婚して、その後一人暮らしだったF子さんのところに、妻を亡くした兄が同居を希望してきました。ともに 70 歳代です。兄には子供が二人いるのですが、嫁に疎んじられて嫌だというのです。F子さんは気の毒に感じ、しばらくの間のつもりで、兄の同居を引き受けました。ですが、糖尿病の持病をもつ兄は視力が衰え外出しなくなって、入退院をくり返すうち、だんだんと子供よりも彼女の方に負担がかかることになってしまいました。つまり兄の財産である家に住む息子も、F子さんの負担を当たり前のように思っているが、彼女も仕方がないと世話をしているのです。彼女は自分が元気なうちは世話するが、自分の老後は不安だが、考えないようにしているのだそうです。

2.甥がびっくり?

 もうひとりの例は子供のいない夫婦の例です。夫を亡くしたG子さん( 64 歳)が心臓バイパス手術のため入院することになりました。家族の保証人が要るといわれ、彼女はめったに会うこともない亡夫の甥に頼もうとしました。びっくりしたのは、その甥の方です。自分の親ならいいが、亡くなった叔父さんの配偶者の入院手術の保証人を頼まれて、断わることもできず、眠れない日が続いたといいます。

3.血縁のない関係に厳しい環境

 女性同士で共同の家を買って老後を一緒に住む計画を立てた知人が、いくつもの困難にぶつかりました。まず、いつもは何ひとつ役に立っていない身内が馬鹿げていると反対する。土地を買おうとして不動産屋に行っても血縁のない共有に難色をしめし、 60 才前後という年令に拒否感をあらわしました。

 子供がいる人が、子供(成人)の反対で途中で脱落すると、それがきっかけでまた動揺しはじめて、白紙状態に戻ってしまったままだというのです。

 今後、家族だけでない人間関係しかもたない人が増えていくと予想されます。その人たちにもやがて自立不能期が訪れます。家族に限定されない「親しい関係」「信頼できる関係」が「介護」や「介護のプロデュース」の当事者になることも認め合う必要性がありそうです。血縁家族だけが、社会生活の単位として認められ、他の関係がほとんどなかった時代から、さまざまな生き方が選ばれるようになれば、老後も介護も家族に限定されない生き方があるはずでしょう。

 現在の介護が必要とされる年齢層は、かつて刷り込まれた家族介護幻想からなかなか抜けられません。そのことが、本人と血縁関係ある女性の重い負担になっている現実があり、「ノー」を言えないことで苦しめているのでしょう。しかし、これからの高齢者はだんだんと時代背景や自分の周囲の家族の変化を認めていくと思います。認めない方には、分ってもらう努力をしていかなければ、塚田さんのご指摘のように、生産人口がなくなり、社会が成り立たなくなってしまいます。公的な情報や周りの人々の絶えまない努力で、進めざるを得ないのではないかと、私は思っています。その意味で介護が家族(特に女性)から、社会への移行期、「過渡期」なので、さまざまな場合が出ているところなのでしょう。

 民法の親族間の扶養義務と遺産相続権なども、現状の実態と合わないので、今後、検討されていくべきだという声もぼつぼつ上がっています。話が広がってしまいました。ごめんなさい。

 介護される立場の本人がいわゆる惚けてしまい、とんでもない人に相続させるという指定に遺言を書き換えてしまい、問題が起きていることもあるようです。こんなことの防止には、例えば、自治体などの公的な「成人後見制度」が要望され始めていますが、公証人制度や弁護士の仕事ともからんで、まだまだ実施は見込まれていません。

<介護と「男らしさ」「女らしさ」>

 家族が一代きりの時代を迎え、生物的要因(女の方が寿命が長い)と文化的要因(結婚の年令差は男が高い)の二つで、夫の介護を女がするが、残された女に介護する人がいないことになるのは、不思議ではありません。では、本質的に男より女が介護向きなのでしょうか。

 長年、「自明の理」と思われていた性別役割に疑いをもったのが、第二次ウーマンリブのきっかけでした。社会的文化的な性別役割は実は権力と深く結びついて、男性優位のシステムのなかで「男らしさ」「女らしさ」が個人の内面にも染みついているのです。

 「男らしさ」の形容詞に、たくましい、包容力がある、決断力がある。「女らしさ」では、おしゃれ、つつましい、やさしい、などをあげた調査を、心理学者柏木恵子が因子分析して、男は知性と行動力、女は美と従順、と定義しています。

 介護に必要な・優しい心・たくましい手・冷静な判断力と擦り合わせてみると、どうでしょう。「男らしさ」こそ、介護適格者といえるではありませんか。しかし、男には、知性と行動力を発揮する場が、あらかじめ社会の中の職業という有償な(お金になる)場が用意されていたり、自分の家族を養うという自尊感情を満たし、自己価値をたかめる場所があります。ですから、無償の家族の世話の一部として、介護は女に任せたいのでしょう。任せて自分が逃げることが、これまではできる社会だったのです。(古典的性別役割の内面化世代)しかし、家族の多様化で父母を介護する立場になったり、妻が先に倒れることも、今後起きてくるでしょう。そのような時、本来の「男らしさ」が介護と近いことを、もっと社会的に認知していく必要があるのではないでしょうか。

 この男の介護参加の道に、いまもっとも欠けているのは、情報(マスコミ)と教育だと私は思います。マスコミが市場経済におもねるのは、仕方がないかもしれませんが、教育は国民の要望に応えるものにしなくてはなりません。

 「男の子育て」が少しずつ始まり「育児休暇」がとれるようになったように、男の介護も始まっています。理屈以前に介護せざるを得ない状況になっている、ということもあります。このようなとき、介護のプロデュース役に職業時代の腕を生かして、気持ちいい介護をしている男がいます。職業で鍛えた「自分の分野」「他人にさせること」などの仕切りに慣れていたり、お金の使い方が合理的だったり、期限のない介護では、いい面の男らしさでかかわれるのです。現場での体位交換や、トイレまで肩を貸す、車椅子を押す、などの力仕事も男に適任だと思いませんか?

 でも、圧倒的多数( 79 %〜 85 %)は女性ですし、「女らしさ」に合う仕事だと思っている人がいます。「女らしさ」のなかの後の方の「従順」を介護に照らし合わせて考えてみましょう。

 この「従順」は単に、目前の親や夫などに対してだけではなく、文化的社会的規範に従順なのです。自分の欲求を貫いたり、自分の頭で考えての自己決定よりも、社会的な役割とされている家族役割の一部として引き受けることになる従順なのです。

 「するべき」という他者からの期待に従順なのです。自分がどこまでならできるか、またはできないかなどの判断をしていないので、引き受けた後で困難が起きても、無理してしまいがちなのでしょう。ですから、引き受ける安易さの後、不満や怒りも一緒についてきて、挙げ句に混乱や燃え尽き現象となってしまう危険があるようです。混乱の上で意地悪い対応をしてしまい、またそのことで自分を責めることになるのは、悲しいことではありませんか。

 女の従順さは、女の子として育てられる発達過程で、自分中心を「わがまま」と非難されて、周囲の権威にしたがうことを奨励され続けた結果、身につけた習性です。この習性を女本来の特性として、他者の奉仕を割り当ててきたのが、無償の家族役割だということは、ここでもう一度確認してみる必要があります。

このために、一人で孤立した介護の後のD子さんの言葉「自分はやれたけれど、誰でもできることではない」または「自分はこんな思いを人にさせられない。娘にもして欲しくない」となるのでしょう。

 家族介護が一人でなく、きょうだい数人だと、交代することでこの無理な燃え尽きにならない例があります。しかし、数人の介護家族は前に何回も指摘しているように、今後はするメンバーがいないのですから、ほとんどあり得なくなるので、社会でカバーするしかないわけでしょう。

 その社会介護でも、女が多いことは職業選択として仕方がないでしょうが、介護は結構力仕事ですから、男の参加もまた待たれるところです。そのことを、「高齢社会をよくする会」の金森トシエさんは、「男はいらない。男手がほしい」と言っています。いままでの男は「理屈ばかりで女をこきつかった」ので、このような表現になったのでしょう。これからの男は、家族役割にも平等に参加していくことを期待したいものです。介護の社会化といっても、家族が居れば家族が第一なのは自然なことです。

 介護の社会化というのは、家族のなかの女が一人で孤立して負担させられるのではなく、社会の責任で行われることですから、当然男がふくまれます。その場合「男らしさ」という特性さえも前述のようにぜんぜん支障にならないのです。ただ、家族の世話に慣れていないだけなのです。そのうえ、いいモデルがないので、どうやっていいのかわからないのだと思います。ですから、広い意味の教育が必要なのだと強調したいのです。教育のなかで今思いやり、他人の痛みへのやさしさなどの感性を育てる「心の教育」が見直されています。これらは人間関係を豊かにすることにつながる大切な感性であり、まったく福祉や介護などの弱者との共存の社会に生きるモラルそのものではないでしょうか。

 現在でも、一人ずつは動機が切迫したりして、他の方策がなかったりした場合しぶしぶでも、たくさんの男が介護に参加をする機会はふえてきています。まだまだマイナーでしょうが、それでも、一歩前進なのです。「男らしさ」と家族役割は相性が悪くないのですから、プロとしても家族としてもまたはボランティアとしても今後に期待できるはずです。

 以上は介護する側の性別に関する問題でしたが、では介護される側ではどうなのでしょうか。はっきりした調査資料が見当たらないのですが、仄聞する限り、従来は男も、女の介護が女であることを期待しているようです。看護の世界が長らく女の仕事であったこと、介護の間接的な家事援助と直接的な食事、からだの清拭、排泄など、からだに触れる援助に女のやさしい手が期待されがちだったことから、女の介護が自然視されてきたものと考えられます。

 男が介護に専門職として参加し始めている現在、これからは性別よりも個人の性格資格や仕事の質が現場で評価されていくはずです。社会福祉士、介護福祉士、今後の介護保健実施に向けて養成真最中のケアマネージャーなどに男性がどんどん参加していますから、介護の担い手も現場から変わっていくでしょう。現在はその変化に伴って、介護される側の性別役割認識も変わる過渡期なのだと思います。

#4のキーワード 今は介護の過渡期、これからは女も男も。

 今後の予定としては、諸外国の例を提示したいと思っているところです。その他、皆さんの感心ある介護保険制度などは、他の専門家の方からお話いただけるはずです。
塚田さん、ご提示の総括でそれぞれのできることを考えるのは、賛成です。私が介護される側に一番近いこともあって、なにか役立つことを模索していました。ここに強引に参加したのも「できること」をしたかったからです。

 

Fさん:

個人的に成人後見人制度については興味があったので、「すてっぷ」というところが主催するパネルディスカッションに3年前に行ってきました。この制度は知的障害者や痴呆の方の権利を守るためにこれからドイツの制度を雛形にして制度化しようとしているものです。現行制度の禁治産制度ほど厳しいものでなくて、サポートの必要なところだけサポートし、他は本人の意思を尊重するような制度になるようです。

例えば、自由に外出できない要介護者が法定相続人になった場合、親族同士の話し合いが物別れに終わった時、交渉の場を家庭裁判所に移すことになります。しかし、本人が家裁に行けない時は、家裁に調停を申し立てることさえできず、要介護者の権利が侵害される場合があります。

また、本人に意思能力がないと金融機関に判断された場合、預貯金の払い出しができない事態になる場合があります。入院費の支払い等、緊急の事態があり、本人のために使われることが明確な場合、銀行は支払いに応じてくれるようですが、生活費のようなあいまいない支出では、難しいこともあります。

いちいち金融機関が一人一人の意志能力があるかどうかチェックしているわけではないので、家族が積極的に金融機関に伝えなければ、支払い停止のような大事にはいたらないようですが・・・。 このような場合、家裁に申し立てて禁治産宣告を受けてそこで選任された後見人により行うことになります。

しかし、この禁治産制度は時間とお金が必要で、なかなか使いにくい制度です。まず、選挙権がなくなりますし、戸籍にも載ってしまいます。その代わり、本人が行った法律行為が無効になります。また、その他の多くの資格において、欠格事由とされます。

私は、一人暮らしで家族に頼れない方や、体の自由が効かなくて自分の財産を管理しきれなくなった場合の対処方法として成人後見人制度に注目していますが、痴呆症の方や、知的障害者に限定されるようで、とてもがっかりしています。頭はしっかりしていても体が不自由で外出がままならない方の財産や権利を守るためにも、ぜひ対象範囲を広げていただきたいと私は思っています。それとも対象範囲を広げたために起こる不都合が、たくさんあるのでしょうかねえ。

参考文献

「痴呆性高齢者 権利擁護相談マニュアル」;

社会福祉法人 東京都社会福祉協議会 権利擁護センター すてっぷ 監修・野田愛子

 

塚田:
清水さん、具体的なケースを提示してのご講義ありがとうございました。清水さんには、まだいろいろお伺いしたいこともありますので、改めてご教示お願いいたします。

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Last updated on 17 September 2001 by Michiko Takeda